Japan歴史紀行 高杉晋作
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高杉晋作 功山寺 坂本龍馬 桂浜 土方歳三 五稜郭
 高杉晋作
功山寺司馬遼太郎曰く"狂気"を持った人物で、革命の資質を持つ者。個人的には最も好きな幕末の人物です。松下村塾入塾。師松陰の死生観「人としての正しき道を尽くしきったらその時が死すべき時である。世の中には、身は生きていても心は死んだ人もいる。逆に身は滅んでも魂が生き続ける場合がある。死んで名声が永久に滅びなければ、いつ死んでも良い。また、生きて大きな事を成す見込みがあれば、いつまでも生きるべきである。」を受け継ぎ、29年の人生を激しく生きます。奇兵隊を創始。第一次長州征伐後、長州は藩内保守派の手に落ちる。それに対しクーデターを起こして成功。第二次長州征伐では、幕府軍を撃破。自分の役目を終えたかのようにして亡くなります。辞世の句「おもしろき事もなき世をおもしろく、すみなすものは心なりけり」が生き方を表しています。
年表 
年号  高杉晋作 日本、長州藩
1839 誕生   
1846 吉松塾入塾  孝明天皇即位 
1852 藩校明倫館入学   
1853    ペリー来航 
1854   吉田松陰、下田踏海
野山獄へ。
1857 松下村塾に入塾 松陰、松下村塾開く。
1858 江戸遊学 安政の大獄が始まる
1859 帰郷 吉田松陰死す
1860 結婚  
    関東北陸遊学の旅 桜田門外の変
1861 世子小姓役で江戸へ           
1862 上海視察       
  英国公使館焼打ち 生麦事件
1863 松陰遺骨 改葬   
  孝明天皇の加茂行幸見物  
  隠遁。東行と名乗る。  
  奇兵隊創設 長州藩、外国船砲撃
  奇兵隊総督辞任 8・18の政変、七卿落ち
1864 来嶋又兵衛の説得に失敗。脱藩し京へ。  
  脱藩の罪で野山獄へ 池田屋事件
    蛤御門の変
    第一次長州征伐
  四カ国連合と講和 四カ国連合艦隊、下関攻撃
  九州へ逃亡 長州、保守派政権へ
  功山寺で挙兵  
1865  大田絵堂の戦い、勝つ   
  四国琴平へ逃亡  
           桂小五郎、藩政復帰
1866  長崎で軍艦購入 薩長同盟 
  幕府軍を撃退  四境戦争
(第二次長州征伐)
1867 没。享年29歳。  
    大政奉還、王政復古
1868   明治維新
 ゆかりの地
日本地図全体
山口)萩 生誕地松下村塾
 明倫館萩城跡萩博物館
 野山獄
山口)下関、長府 終焉の地
白石正一郎旧宅跡東行庵(墓)、
長州砲台跡功山寺
東京)昌平坂、品川、
   伝場町、小塚原、世田谷

昌平坂学問所旧英国公使館
伝場町処刑場跡小塚原回向院、 世田谷松陰神社
茨城)笠間 笠間城
長野)松代 象山神社
福井 福井城
京都 旧長州藩邸下鴨神社
    蛤御門
福岡 野村望東尼 平尾山荘
    小倉城
香川)琴平
 金刀比羅宮
長崎 グラバー園亀山社中

誕生/少年期
菊屋横町1839年8月20日、萩城下町の菊屋横町で生まれる。(←写真は萩 菊屋横町)
父は長州藩中流武士階級。
晋作は8歳で寺子屋の吉松塾に入塾、この頃、久坂玄瑞と出会う。
10歳の頃、天然痘にかかり、一命を取りとめる。12歳頃から剣術に打ち込み、14歳の明倫館入学後も学問がつまらず、剣術に打ち込む。 


松下村塾
松下村塾久坂玄瑞に誘われ、吉田松陰の松下村塾に入塾。(→写真は萩 松下村塾)
松陰に「才能はあるが、久坂ほどではない。」と言われ、発奮し勉学に打ち込む。松陰は発奮させる為に、わざと言ったと言われている。
毎晩、松下村塾に通う日々が続き、久坂をライバルとして勉学に励んだが、祖父の反対で罪歴のある松陰の元への塾通いを禁止される。

江戸遊学と師松陰の過激な計画
1858年、祖父が亡くなり、より行動が自由となった晋作は、江戸昌平坂学問所に遊学。しかし、そこでの学問は松下村塾と比較すると冷めたつまらない学問と思えた。
この年、安政の大獄が始まり、水戸藩士等が大老井伊直弼の暗殺を計画する。松陰も水戸藩士に遅れてはならないと、老中間部詮勝の暗殺を計画。その協力を江戸の晋作/久坂らにも要請する。晋作、久坂らは反対するが、松陰は落胆と怒りに満ちた絶縁の返事を返す。松陰は再び野山獄に入れられ、やがて江戸へ送られる。


師松陰死す
伝場町処刑場跡江戸に送られた松陰は伝馬町の牢に入獄。(←写真は東京 伝馬町処刑場跡)
晋作とはいくつかの手紙を交換している。晋作は師に死生観を問い、松陰は答える。「死は好むべきでも憎むべきものでもない。人としての正しき道を尽くしきったらその時が死すべき時である。世の中には、身は生きていても心は死んだ人もいる。逆に身は滅んでも魂が生き続ける場合がある。心が死んでいれば生きている益はなく、魂があれば滅んでも損はない。死んで名声が永久に滅びなければ、いつ死んでも良い。また、生きて大きな事を成す見込みがあれば、いつまでも生きるべきである。」
1859年10月27日、吉田松陰は処刑される。晋作が帰郷の為、江戸を発った10日後であった。

関東北陸遊学、上海視察
松陰の死の中、晋作は、両親の勧めもあり結婚し、明倫館の舎長となるなど、書生身分から卒業し始めた。ところが、藩の命令で航海修行にでかけたが、途中で嫌気がさし、脱藩。そのまま、北関東、北陸へ旅発つ。茨城)笠間〜宇都宮〜足利〜松代〜高田〜福井〜大阪とめぐり、加藤有隣、佐久間象山、横井小何楠らと合い話を聞く。間もなく、藩主世継ぎの小姓役となり、江戸へ。晋作の行動を心配する桂小五郎が上海視察を決定。そこで晋作は、欧米列強に支配される中国の現状を見、日本の富国強兵の必要性を痛感する。

英国公使館焼討
上海視察後、藩に対し公武合体の放棄(当時は長井雅楽のもと、長州は公武合体であった)を進言したが受け入れられなかった。尊王攘夷の為に、久坂、晋作を中心に若き志士は「御楯組」を結成し、品川御殿山に建設中の英国公使館を焼討する。しかし、幕府も英国側も事を荒立てないよう処理し、若き志士達の尊王攘夷の行動は大きな成果に結び付きはしなかった。

松陰遺骨 改葬
世田谷 松陰神社小塚原回向院朝廷が、安政の大獄での死者の名誉回復の考えを示し、
長州藩は小塚原回向院(←写真は改葬前の小塚原回向院)からの改葬を幕府から許可された。
晋作は、伊藤俊輔、山尾庸三らと遺骨を掘り起こし、長州藩別邸のあった世田谷に改葬した。(→写真は改葬後の世田谷松陰神社)


加茂行幸見物
世子毛利定広から京にくるよう呼び出される。孝明天皇の攘夷祈願に、将軍家茂も同行していた。晋作は家茂に対し、「よっ!征夷大将軍!」と、攘夷できない征夷大将軍に皮肉の意味を込めて罵倒する。

隠遁
高杉草案晋作は、周布政之助に倒幕を進言。周布は時期早尚として「10年早い」と。晋作は答えて「では、10年暇をもらう」と。髪を剃って、東行と名乗り、松本村に隠遁した。(→写真は萩 松本村 草庵跡)

奇兵隊創設
1863年幕府が攘夷決行の日を定めた5/10に、長州藩は、下関海峡を通過する外国船に砲撃。しかし、6/1にアメリカ、フランスが報復開始。下関の砲台が壊滅。藩は、隠遁中の晋作を出頭させ対策を練らせる。晋作は、「奇をもって虚を制する兵を作る」ことを許可される。商人の白石正一郎をスポンサーとして武士階級以外を募った"奇兵隊"を創設。晋作は初代総督となる。しかし、藩の正規軍と対立し、3か月で総督の職を辞している。

8・18の政変〜池田屋事件〜蛤御門の変〜野山獄へ
野山獄
京都では、会津と薩摩が合体し、長州系公卿を追放(8・18の政変、七卿落ち)。その状況を打破しようとした攘夷志士らが池田屋で新撰組に暗殺される。久坂や木嶋又兵衛らが挙兵し、京都御所の蛤御門に侵入、会津/薩摩藩から勢力奪還を試みるも失敗。
この際、晋作は来嶋又兵衛を説得しようとするも腰抜け扱いをされ、京に向かうが脱藩の罪となり、野山獄に投獄される。のち自宅謹慎。(←写真は萩 野山獄跡)

第一次次長州征伐、四カ国連合の報復〜談判役〜九州逃亡
一気に長州藩は不利な情勢となり、蛤御門の変の責任を取る形で、藩政は革新派から保守派に政権交代。革新派は首を切られた。さらに、以前の下関での砲撃に対し、4か国の連合艦隊が長州を襲撃。四方八方が敵だらけとなった。
自宅謹慎中の晋作は、またもや藩に呼び出され、4か国連合との講和談判役として活躍し、賠償金等の申し出を断っている。しかし、その後、藩政が保守派に完全に変わってしまった為、九州の野村望東尼の所へ逃亡し、時が来るのをしばし待つ。

功山寺挙兵
功山寺挙兵
およそ1か月後、晋作は下関に戻る。1864年12月15日、奇兵隊内の一部(力士隊、遊撃隊80名)を率いて挙兵。功山寺に七卿落ちで軟禁されていた三条実美らの前で「長州男児の肝っ玉をご覧にいれます」と、雪の中を出陣。長州藩内が第一次長州征伐以降、保守佐幕派で占められており、クーデターを起こしてでも倒幕に向かわせる為である。
まず晋作達は、長州藩内の奉行所を襲い、食料と軍資金を調達。三田尻では軍艦3隻を強奪。明けて1865年、大田絵堂の戦いでは、長州正規軍と戦い勝利。この頃には、奇兵隊の残りも山県有朋を筆頭に参戦しており、次々と勝利する。2月になると、藩内は高杉らに統一され、藩論も倒幕へ復活した。

琴平逃亡
ところが... 晋作は尊王攘夷、倒幕だけでなく、その後の富国強兵も考えており、そのためには開国して外国とも貿易していくべきだという考えを抱いていた。その考えが尊王攘夷過激派と衝突し(当時は尊王攘夷と開国は正反対の考えとされていた)命を狙われる。愛人のおうのを連れて、讃岐の琴平に逃亡する。ここでは、松陰の死生観の「生きて大きな事を成す見込みがあれば、いつまでも生きるべきである」的な選択をとった。

四境戦争(第二次長州征伐)
藩内では藩論が統一された事もあり、桂小五郎から逃亡先から藩政に復帰。薩摩との間で薩長同盟が結ばれる。晋作は、琴平から下関に戻ってたが、幕府との戦いが暫くない様子であったので、海外留学をしようとする。藩から1500両の留学資金をもらい長崎に向かう。ところが、長崎で幕府が攻撃してくるとの情報をきき、海外留学をとりやめ、トーマス・グラバーから軍艦(のちの丙寅丸)を購入。その軍艦に乗船して下関に再び帰国した。1866年5月、幕府が諸藩に長州征伐の号令を出し、周防大島を占領すると、海軍総督に就任した晋作は、自ら丙寅丸に乗船して夜に奇襲をしかけ撃退。のちに、晋作の後を軍事面で引き継ぐ大村益次郎(村田蔵六)も石州口で緻密な戦い方で勝利している。小倉口では、晋作からの応援要請に対し、坂本龍馬が海援隊を引き連れ駆けつける。8月には小倉口の戦いを制した。


墓結核をわずらっていた晋作は四境戦争中にも幾度か倒れ、10月からは完全に床にふす状態となる。正妻雅や長男梅之進も駆けつけ看病にあたったが、1867年4月14日晋作は生涯を閉じる。享年29歳。松陰の死生観の「人としての正しき道を尽くしたきったらその時が死すべき時である」まさにその時であるように。辞世の句は、上の句を晋作が"おもしろき事をなき世をおもしろく"、下の句を野村望東尼が"すみなすもの心なりけり"。面白くもない世の中だけれど、面白く生きる。それができるのは心の持ち方次第である。

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